授業における間とは

授業において、息をつかせぬマシンガントークが展開されるケースもありますが、それは例外的な少数派だと思います。一般には何らかの間や短い沈黙が含まれるケースが主です。今回は授業における間、あるいは沈黙について。

集団指導と個別指導では、沈黙に対する考えが異なります。

まずは集団指導から。なんでもいいからしゃべり続けろなんて言われたことがあります。板書しながら書いてあることを読め とか なんなら歌ってもいい だとか。

集団指導の場合、基本的には自分の声だけでしか授業は進行しません。ですから、沈黙の時間が続くと何をすべきなのかが分からなくなるケースがあります。だから、しゃべり続けろ なんですね。質問で授業の流れをつくっていくケースでも、早々にヒントを与えて誘導するケースがありました。ホントは良くないのですが、そうしないと時間通りに終わらない場合は、時間通りに進めることが優先されます。

一方で、個別指導の場合、基本的には会話の延長上にあります。しかも、個別指導を選ぶ生徒は、集団指導のテンポ感についていき辛く感じる子も多くいます。ですから、集団指導のように矢継ぎ早にヒントを与えてシナリオ通りに誘導するよりも、しっかり間をとってそのこのペースに合わせることが大切だと思うのですね。

講義ではありませんので、会話のようなやり取りをしながら板書や説明を交えるのが良い授業だと思います。会話における沈黙に関しても個人差がありますが、個人的には沈黙があっても良いと思っています。生徒自身がやるべきことを理解していれば、ずっと声を張る必要はないのでしょうか。

ただ、ノートの転記や演習の際に、ずっと沈黙だと違和感があるという講師もいるかもしれません。僕は優先度の低い話題を話したりしています。書きながら(解きながら)で良いんだけど と前置きして話しますね。雑談チックなことや豆知識みたいな話題のストックがあれば、そこで軽く披露しても良いかもしれませんね。

集団指導の話を書いていて改めて感じましたが、声を張り続けるマシンガントーク仕様の授業ってのは、なにかすごそうに感じる気がします。生徒は上手いか下手かには敏感ですが、どのくらい上手いかはあまり敏感ではありません。ですから、マシンガントーク仕様にすることで、早期に下手な授業を脱する意図があったのかという気がします。

まあ、ホントに上手い授業ってのは過不足のない授業なんですね。声のトーン・強弱、質問、間、すべてがちょうど良いのが上手い授業なのです。そしてそれは簡単に習得できるものではなく、たくさんの失敗に裏打ちされた経験がなせる業なのですね。

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